1992年6月21日 MX-R01 [MV10(600ps)・750kg]  V.バイドラー/J.ハーバード/B.ガショー  グループC
MX-R01 [MV10(600ps)・750kg]  M.S.サラ/従野孝司/寺田陽次朗  グループC
No.5
No.6
   

 

ルマンで日本車初の総合優勝を遂げた翌年、REでの参戦が不可能となったため、
マツダは自然吸気
V10.3500DOHCレシプロエンジンでの挑戦を行う。

特に、最初に乗車したV.バイドラーの走りは特筆もので、
予選7位であった5号車は、スタート直後すぐさま4位に浮上。
3台を持ち込んだプジョーと、5台を持ち込んだトヨタに次ぐ位置をキープするかと思われたが、
どうやら大橋監督の言う、自由な方の車両が5号車だったようで、
その後もV.バイドラーは耐久レースとは思えないテクニカルな走りで、
周回を追う毎にラップタイムが上昇、レース開始30分以内で早くもトップを独走した。

マツダにとってレシプロ車でのルマン参戦は初めてであるため、当初は波乱が予想されたが、
今までルマンで培った経験を生かし、結果は総合第4位と予想以上の大健闘であった。

これにより、ロータリーエンジン・レシプロエンジン共にマツダの高い技術力を証明した。
5号車は写真上のチャージカラー、6号車は写真下のホワイトボディのカジマ仕様だった。
F1ドライバー達がF1よりも凄いと言い、寺田陽次朗氏が一番レーシングカーらしいと絶賛したマシン。
4位
リタイア
1994年6月19日 RX-7 GT-S [4ローター搭載]  寺田陽次朗/F.フレオン/P.ドウトワジー GTS No.74
 
1992年以降、マツダは業績悪化を理由にルマンへの参戦を中止したため、
この年からマツダスピードは、マツダ鰍フ支援を受けずに単独でルマンの参戦を始める。
マシンは1991年のIMSA-GTO優勝車の4ローター搭載RX-7 GT-Sで、
結果は総合15位で完走と、マツダスピードのモータースポーツに対する情熱と技術力の高さを示した。
15位
1995年6月18日 DG-3 [3ローター搭載]  寺田陽次朗/J.ダウニング/F.フレオン  プロトタイプ No.5
 
前年のルマン復帰に続いてマツダスピード単独で挑戦した2度目のルマン。
今回は前年の市販車ベースとは打って変わって専用マシンを調達し、本気で勝ちに行く姿勢を見せた。
95年の総合7位の記録は、ミスタールマンこと寺田陽次朗氏にとって自己最高記録を更新する事になった。
7位
1996年6月16日 DG-4 [3ローター搭載]  寺田陽次朗/J.ダウニング/F.フレオン  プロトタイプ No.20
 
昨年のDG-3に続き、96年のルマンには改良を重ねたニューマシンのDG-4を投入。
結果は総合25位と世界との差を多少見せ付けられる格好にはなったが、見事完走を遂げMSの技術力は健在。
25位・クラス優勝
1997年6月15日 MS-97 [26B(490ps)・875kg以上]  寺田陽次朗/J.ダウニング/F.フレオン  プロトタイプ No.15
  97年のルマンは「am/pmジャパン」を技術面・運営面から支援する形で参戦。チーム名は「am/pmマツダ」
結果はトラブル続きで傷だらけではあったが総合17位で完走と、技術屋の意地を見せつけた。
マツダスピードのルマンへの参戦はこの年が最後で、1999年7月には会社その物もマツダ鰍ノ吸収され解散した。
17位
2002年6月15日 オートエグゼ・LMP-02 [4ローターRE(480ps)・790kg]  寺田陽次朗/J.ダウニング/J.フォーガス  プロトタイプ No.24
 
ミスタールマンこと寺田陽次朗氏率いるオートエグゼが5年振りにサルテサーキットにロータリーサウンドを響かせた。
結果は5周目でトラブルが起きリタイアと喜べるものではなかったが、REの灯をルマンに灯した功績は大きい。
予選35位
決勝リタイア

          

マツダ、再びルマンへ。
マツダ、再びルマンへ。


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