サイト内で特に触れなかったけど知っていて欲しいマツダの歴史や、
マツダを語る上でやっぱりこれは外せないという出来事を、このページに書き加えて行きます。

 

  ■ 第1回日本カー・オブ・ザ・イヤー受賞車はマツダ車
 
自動車に与えられる賞で日本一の権威があるとされる日本カー・オブ・ザ・イヤー、
その第1回目の受賞車は、1980年のマツダ・ファミリアである。
そして、その2年後の第3回はカペラが受賞したが、その後マツダ車の受賞は非常に長い間なく、
3回目の受賞は第3回のカペラから数えて23年後の2005年「3代目ロードスター」であった。

日本カー・オブ・ザ・イヤーの選考に当たっては選出基準について不透明な部分があったが、
2005年より選出方法が開示されるようになり、その記念すべき1回目がマツダ車であったというのは
評価すべきところだろう。


第1回(1980年)日本カーオブザイヤー受賞車 5代目ファミリア
 
  ■ マツダ、最初で最後?の5チャンネル体制
 
 

 

1989年から1991年に掛けて、ユーノス店・オートザム店・アンフィニ店を次々にオープンさせ
トヨタに並ぶ5チャンネル体制を整えたマツダ。
結局その会社の体力に見合わない大き過ぎる体制が無理を招き、業績不振へと堕ちて行く訳であるが、
この時生まれた5つのブランド、マツダ・アンフィニ・ユーノス・オートザム・オートラマは消費者にとっても複雑だが
現実は更に複雑で、アンフィニはブランド名なので「マツダ株式会社のアンフィニブランド」になるが、
ユーノスとオートザムは別に会社を設立したので、「株式会社ユーノスのロードスター」という位置づけになる。

ちなみに、この5チャンネル体制。各ブランド向けに兄弟車を連発した事も不振になった原因の1つとされており、
初めから無理だったのでは…など、当時の社長のやり方が非難される事も多々あるが、
管理人的には、この頃に発売されたクルマ達の個性・マツダらしさに惹かれマツダファンになった経緯があるので、
実はこの頃のマツダが好きだったりする。

 
  ■ マツダの実力を見せ付けたルマン24時間耐久レース
 

世界最高峰とされるルマン24時間耐久レース。
1970年代からロータリーでの参戦を続けて来たマツダであったが、
規定の変更によりロータリーでの参戦は1991年を最後に禁止となる事が決定した。
だが、その最後の年にマツダは総合優勝を遂げ。感動を呼び伝説となった。
その翌年、レシプロを積んで参戦したマツダが総合4位の好成績を収めた事が更に感動を呼ぶ事になる。
ちなみに、その後再び規定が変わり、1994年には再びロータリーを搭載したマシンで参戦した。

 
  ■ フォード傘下へ、そして初の外国人社長。
 

極度の業績不振から1996年にフォードの傘下入りしたマツダ。
当初はフォードの日本工場になるのか?といった過剰な報道や、現実にロータリーが廃止に追い込まれるなど、
一時期マツダは、ファンの目から見ると、自社で意思決定を行い自由に活動する事が出来なくなったように見えた。

ただ、一番の救いであったのは、それまで関係を持たない見ず知らずの海外メーカーの傘下に入ったのではなく、
古くから提携関係にあり、マツダの兄弟車が世界中でフォード車として売られていたり、
マツダが開発したクルマをフォードが販売するなど、関係がかなり深かったのが幸いし傘下入りのデメリットは低かった。
むしろ、傘下入りした事により、共同開発による新車開発費削減や、共通パーツによるコスト削減が功を奏し、
それまでに成し得なかった完成度の高いクルマ「アテンザ」などのヒット車を生み、マツダの業績は一気に回復する事となる。

 
  ■ いつまでも揺るぎない関係にある、マツダと三井住友銀行
 

マツダがフォード傘下になった1996年6月、マツダの歴史を語る上で絶対に外せない名言を1人の男が言った。
フォード出身の外国人社長が来るまで、マツダの社長を務めていた和田淑弘氏である。
フォード出身社長と同席した会見で「ロータリーを無くす」という話が出た際、マツダにとってロータリーは特別であり、
他の物と同じに考えてはいけないとテレビカメラの前で堂々と反対した。

この話を聞くと、マツダの社長なんだからロータリーを失くしちゃいけないと言うのなんて当然じゃんとお思いだろうが、
実はこの社長、メインバンクである当時の住友銀行(現:三井住友銀行)からマツダの経営を立て直すためにやって来た
本来ならロータリーを失くしてでも経営を立て直す立場にある人が言った発言である事が特別なのである。

銀行出身社長って利益だけを追求しそうなイメージがあるが、この人は言う事が違った。
変な言い方をすると、銀行出身者のくせにマツダの大切な技術やマツダファンが望んでいる物を理解していたのである。
マツダと同じ自動車屋であるフォードが無くそうとしたロータリーを残そうとする銀行屋の姿にかなり心を打たれ、
管理人のメインバンクも三井住友銀行になったのは言うまでもない。
まぁ、そもそもの話をすれば、住友銀行がマツダの経営を抜本的に見直すにはどうしたら良いかを考え、出た答えが
フォード傘下であったので自分から呼んだといえばそれまでだが、住友銀行はいつもマツダの将来を考えていた。

 
  ■ 新CI導入、マツダの2つのマークのデザイナーは同じ
 

1997年になると、マツダはブランドイメージの向上・統一の為、通称カモメマークと呼ばれる新たなシンボルを導入する。
これは、古くはロードペーサーや2代目コスモの頃から使われている「mazDa」のコーポレートマークと共に使われるもので、
マークの一新により今までのロゴの廃止等を行うものではなかった。
ちなみに、この2つのマーク、同じデザイナーがデザインを担当しており、2つのマークの相性が良いようにと
予めデザイナーが2つのマークを並列して使用する事を事前に考え作ったという逸話がある。
実際に、この2つのマークのデザイナーであるレイ吉村氏はカモメマークの発表後にインタビューを受けた際、
「マツダの新しい出発点となるこのシンボルには、生命体のもつ優しい膨らみと生き生きとした躍動感を表現したかった。
それと同時に、マツダのコーポレートマークとの相性も重要でした」と答えている。


新シンボル装着第1号「ミレーニア」

 
  ■ マツダはフォードグループでしたが
      

マツダが以前フォードグループだったのは前述の通りですが、ではどこのメーカーがフォードグループなのか、
全部で何社あるのかと言われると…フォード・マツダ・ボルボ・・・・・・意外と思い出せない。
と言う訳で、ここではっきりさせておくと、フォードグループとは俗に、フォード・リンカーン・マーキュリー(ここまで米)・
ランドローバー・ジャガー・アストンマーチン・デイムラー(ここまで英)・ボルボ(スウェーデン)とマツダの各メーカー・ブランドと言われていた。

この繋がりにより、マツダとプラットフォームを共通化したフォード車やボルボ車の登場へと発展する。
結構沢山あるように思うが、GMと比べると半数程度であり、またその後フォードが深刻な経営不振に陥り、
マツダを含め多くブランドを売却した事から、規模は大幅に縮小している。
また、小さなブランドが多く、販売台数で見ると1つのブランドで年間100万台以上を販売していたのはフォードとマツダだけであった。

 
  ■ Matsudaではなく、Mazda。
 

これは有名な話であるが、あえて触れない訳には行かないので触れておくが、
マツダ株式会社の英訳名は「Mazda Motor Corporation」 MatsudaではなくMazdaである。

これは古代ペルシャのゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー(Ahura Mazda)に由来し、
また、マツダの創業者である松田重次郎の姓にもちなんでいる。
このアフラ・マズダーは光の神として崇められており、自動車産業の光明となる事を願って付けられた。

古くは、東芝が販売する電球のブランドに「マツダランプ」というのがあった。
これは、光の神であるアフラ・マズダーをそのまま由来にした物であると言え、
創業者の名を元にしたマツダも納得だが、東芝がブランドに起用したのも納得出来る。

ここからは、空想というか真実というか、とにかく長い時を巡る話になるが、
紀元前600年頃、イスラエルが他国の支配下におかれ多くのイスラエル人が連れ去られた時、
イスラエル人を解放した神はアフラ・マズダーであると言われている。
支配下の中で民族の結束を高めるべく強い信仰を生んだと言われ、
その影響があるのか無いのか、マツダが1992年2月にイスラエル市場に新規参入してから
たった4年で自動車全銘柄中第1位に躍り出たという事実がある。

マツダが魅力的な素晴らしいクルマを作っているというのも勿論であるが、
イスラエル人の心の中では我々の想像を遥かに超えるほど、
"MAZDA"の5文字が絶大な力を秘めているのかもしれない。

         

マツダ関連ウェブサイト
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